CAFE DO BRASIL
CAFE DE BRASILとは、「ブラジルの珈琲」という意味。
ブラジルの珈琲は1800年代初頭から生産されており、約200年の歴史。
1920年代、世界の珈琲市場はほとんどブラジル産による独占状態。
その当時で世界シェアのおよそ80パーセント。
しかし1950年代になると世界的に珈琲の生産が盛んになり、
ブラジル産が占める世界シェアは徐々に減少。
減少に歯止めをかけるべく、国策として珈琲産業に注力し、
ブラジルは現在でも世界第1位の珈琲生産国の座に君臨。
いつもブログを読んでいただいている方は、
いきなりブラジルの珈琲の歴史って・・・
いったいどうしたのと思われるかもしれませんね。
最近、時間があるとブラジルの珈琲農園を調べてるんです。
理由は夏にブラジルへ行けそうだから。
ブラジルの珈琲と言えば、どこの焙煎屋さんでも必ず取り揃えている商品。
メジャー過ぎて、味に個性がないという印象をお持ちの方も多いかも。
かく言う自分も例えば「ブラジルサントス」をストレートで飲むより、
個性のある(強い)インドネシアのマンデリンなどをブラジルサントスで
伸ばしてブレンドで飲むのが好み。
ブラジルは、尖がった個性ある味の珈琲を良さを残したまま伸ばしてくれる、
とても綺麗でバランスの良い珈琲(と自分は思う)。
改めて、ブラジルの珈琲を調べていて歴史の重みと日本人の深い関わりを学ぶ。
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ブラジルでは1888年にようやく奴隷制度が廃止。
それまで農園で働いていた人々は街へと移り住み、農園は極度の労働力不足となり
国の経済に深刻な打撃を与えました。
同じ頃サンパウロ州においてはコーヒー栽培が盛んとなり始め、
サンパウロ州のコーヒー農園は人手を必要とし、
“コーヒー栽培に従事できる働き手となる定住移民=農民”の移住を
ヨーロッパ諸国に呼びかけました。
当初コーヒー栽培はヨーロッパからの移民によって行われていましたが、
労働の苛酷さに加え、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ各国がブラジルへの移民を
停止したことで、それに代わる労働力がますます日本に求められるようになったのです。
こうして人々はコーヒー栽培の担い手となるためにブラジルへと旅立って行きました。
当時、移民を募る広告には“舞って楽しくそして留まる”=舞楽而留(ブラジル)という
当て字を用いた国名が掲載されていたそうです。
日本での暮らしに別れを告げ新天地ブラジルに希望の光を求めて、
1908年(明治41年)4月28日午後5時55分、781名を乗せた笠戸丸(かさとまる)が神戸港を出港。
52日間の長い船旅を経てたどり着いたのが、
今日もなおブラジル最大のコーヒー積出港である“サントス”でした。
東洋から来た小柄な移民たちを見たブラジルの新聞記者は、
他国の移民とは全く異なる日本人の清潔さや礼儀正しさ、
そして大勢の日本人が立ち去った後にチリひとつ落とさぬ彼らの姿に大いに驚いたといいます。
いつの時代も決して忘れたくない日本人らしい公衆での礼節心を感じさせられます。
“コーヒーは金の成る木”と信じてブラジルへ来た移民たちは、
この地へ来て生まれて初めて飲んだコーヒーの苦さに驚き、口に含んだコーヒーを吐き出して、
こんな苦いものを育てる為に遥々海を渡って来たのかと不安にかられたそうです。
そして奴隷解放から長い年月が経ってはいたものの、
農園を取り巻く環境はさほど変わってはおらず、
銃を持ち、馬にまたがった監視人の下で行う農作業は、
コーヒー栽培の過酷な肉体労働以上に精神的苦痛の芽を
日本人移民たちの心に植え付けたと言います。
収穫したコーヒーの実はコーヒー豆を取り出すために 広場に敷き詰めて天日乾燥される。
ブラジルでは主にこの「乾燥式」を行っている。 実にブラジルへ渡ってきた日本人のうち、
およそ8割の人々がコーヒー栽培に従事したと言われています。
サンパウロ州のほとんどのコーヒーの木は、
幾多の困難を乗り越えた日本人移民の手によって育まれ、
特に、今日ブラジルコーヒーの名産地のひとつとして知られる
サンパウロ州モジアナ地域においての活躍ぶりは、
ブラジルコーヒーの深い味わいを生み出す礎となりました。
+++++ 上島珈琲「珈琲コラム」 ~日本人移民とブラジルのコーヒー~より
たまじ珈琲の運営を開始して4年。
「ブラジルサントス」は常に扱ってきた商品。
この珈琲が生まれた歴史に触れ、現地で農園を見れたらとても大きな刺激になると思う。
珈琲というものへの向き合い方が変わると思う。
ブラジルの旅が実現した暁には、またブログで紹介しますね。お楽しみに
今週はこのあたりで。
ではでは。